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クラスノヤルスクはどんなところ?


本会が発足以来、ロシアでの数次にわたる交流を重ねてきたパートナー地域は、シベリア中央部に位置するクラスノヤルスク地方およびその首都であるクラスノヤルスク市です。その横顔をご紹介します。

シベリア最大の重工業都市 

エリツィン・橋本会談で有名に

П-027.jpg市内を流れるエニセイ川シベリアではノヴォシビルスク(140万人)、オムスク(112万人)に次ぐ第3の都市。シベリア鉄道が通っており、モスクワからは4100キロ離れている。水量の豊富なエニセイ川の水力発電と、周辺で産出する金属資源にも恵まれ、ロシア有数の重工業都市として発展。

東西冷戦時代には外国人旅行者は閉ざされていたが、1990年代に入りシベリア抑留の遺骨収集などで日本人も訪れるようになる。1997年11月、橋本龍太郎首相(当時)とボリス・エリツィン大統領(当時)の首脳会談が行われ、この都市の名が日本でも知られるようになった。

コサックが築いた要塞「赤い断崖」

П-011.jpg丘の上に立つパラスケバ聖堂ロシア人によるシベリ征服は15世紀に始まった。探検家に続いて多くのロシア人がシベリアに入植し、原住民と毛皮などの通商関係を持つようになった。こうした動きは17世紀初頭にエニセイ川に達し、1628年アンドレイ・ドゥベンスキ隊長の率いるコサック部隊が、エニセイ川流域の好戦的民族の侵入を防ぐために、カーチャ川のエニセイ川に合流する地点に国境監視所としてクラスノヤルスク要塞を建設した。この地域のエニセイ川の河谷は赤い地肌を持つ断崖であるため「クラスヌイ・ヤール(赤い断崖)」と呼ばれた。それがクラスノヤルスクという地名の起源である。

立地条件に恵まれていたため要塞はその後、どんどんと移住者を吸収し膨張していった。1690年にシベリアがロシアに最終的に併合されると、クラスノヤルスクは都市に昇格。1735年にはモスクワ街道が通じるようになり、クラスノヤルスクはロシアの発展した都市と結ばれるようになった。


大火からの再建が都市の基礎に

П-003.jpgクラスノヤルスク市役所の時計台1773年、クラスノヤルスクは大火事で全市が灰燼に帰した。その後クラスノヤルスクはサンクトペテルブルグの整然とした線型市街を模範としてロシア皇帝自身が作った計画に基づき再建されていった。クラスノヤルスクの歴史的中心部はこの再建当時のままの姿をとどめている。

1807年にロシア最初の世界周航を経て、長崎にも来航したニコライ・レザノフはペテルブルグに帰る途中、クラスノヤルスクで肺炎のため客死した。クラスノヤルスクの大聖堂の域内に葬られたといわれるが、現在その正確な所在は不明である。

シベリア鉄道の開通で急速に発展

П-008.jpgエニセイ川にかかる橋1822年にはクラスノヤルスクはエニセイ県の中心都市となり、1896年シベリア鉄道が敷かれると急速に発展していった。しかし帝政ロシアの時代からシベリアは流刑地でもあり、クラスノヤルスクにレーニンが流された1897年の記録ではこの町の人口の23%が流刑者であったという。

1899年エニセイ川に当時最新の技術でシベリア鉄道の鉄道橋(クラスノヤルスク橋)がかけられ、1899年パリ万国博覧会の際、エッフェル塔と同様に一位の評価を得た。


革命後はシベリアの重化学工業の中心地に

Л-063.jpgクラスノヤルスクの冬 クリスマスツリーロシア革命と内戦の後は、計画経済と傾斜生産によりクラスノヤルスク市を含むクラスノヤルスク地方では、鉄道輸送、採金、林業、冶金業等が主要産業となり、大工場が建設された。特に第二次世界大戦中はロシアのヨーロッパ部分にある多くの工場がシベリアに疎開したことは、クラスノヤルスクの産業発展に強い刺激を与え、短期間の軍事・非軍事生産の開発を促した。その結果、従前の工業生産量が7倍に増え、クラスノヤルスクは東シベリアの工業中心地となった。

1972年にエニセイ川上流に建設されたクラスノヤルスカヤ水力発電所(出力600万キロワット、ロシア2位、世界でも7位の規模)によって産業インフラは整備された。

10ルーブル紙幣はクラスノヤルスクの図案

П-026.jpg黄金の秋 町の一角でロシアで現在使われている10ルーブル紙幣の表面にはクラスノヤルスク橋と、同市の丘の上に立つパラスケバ聖堂、裏面にはクラスノヤルスカヤ水力発電所が描かれている。


クラスノヤルスク市の場所